“鵯越墓園”内の新芝地区西方には“蛙岩”という有名な岩があります。
これは風化して複雑な形に変化した岩が多くの大蛙や子蛙に見えることから、大蛙が旅人を襲ったとか、この岩から毎日蛙が生まれていたという民話が残っているところで、源平合戦“一の谷の戦い”に出てくる“鵯越の坂落し”の話にも登場する有名な岩です。
“一の谷の戦い”は義経が“鵯越”という突飛な策を思いついて、平家の西の砦である一の谷を急襲することによってそれまで栄華を誇ってきた平家が衰退の一途をたどるようになったという、歴史的にも大きな転換点となった戦いとされています。
義経軍は“鵯越”という策を実行に移すべくこの地点まで行くのですが、そこには「鹿しか下りることができない」とも言われる絶壁が立ちはだかっていました。
彼らは引き返すすべもなく途方にくれて顔を見合わせていると、義経は「鹿が下りることができるのなら、同じ4つ足の馬が下りられないわけがない!」と言って、2頭の馬を用意させて一方を源氏、もう一方を平家と決めて絶壁に突き落としました。
すると源氏の馬だけが坂を見事に下ることができたのです。
その馬の快挙に源氏の勝利を予感した義経が進軍を決断すると、ある1人の武将が真っ先にその坂落としに挑んで駆け下りて行き、それを見て勇気を奮い上がらせた者たちも次々と挑み始め彼ら三千騎の雄叫びは山彦となって十万騎ほどにも聞こえたと語り継がれています。
絶壁から攻めて来ることができるなどとは考えも及ばなかった平家は、不意を衝かれて戦意までをも喪失させられたのでした。
また、南門付近の西神戸有料道路の植え込みには“鵯越の碑”が建っていて、源平合戦の時にこのあたりから義経が一の谷へ攻め入ったと言い伝えられています。
さらに墓園の中に入って“高尾地蔵院境内”まで行くと義経が“鵯越”の途中ここで休憩した時に馬をつないだという松が残っています。
今ではこの松も枯れてしまって根の部分だけになっていますが、“義経馬つなぎ之松”として当時のまま残されています。
鵯越墓園(霊園)のまめ知識について解説しています。
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